2025.8.12
日本航空123便墜落事故
日本航空123便墜落事故は1985年8月12日(月)、日本航空123便が群馬県多野郡上野村の高天原山山中ヘ墜落した航空事故です。
日航ジャンボ機墜落事故、ジャンボジェット機墜落事故とも言われています。520名の死者を出し、日本の民間航空史上最悪の事故であると共に、単独機としては死者数において史上最悪の航空事故となっています。


事故機のJA8119(1984年4月16日撮影)
JALの事故報告より
1985年8月12日、JAL123便が御巣鷹の尾根に墜落し、520名の尊い命が失われてしまいました。
その事故の悲惨さ、ご遺族の苦しみや悲しみ、社会に与えた航空安全に対する不信の前で、私たちは二度と事故を起こさないと誓いました。
事故の教訓を風化させてはならないという思いと、安全運航の重要性を再確認する場として、私たちは安全啓発センターを2006年4月24日に開設しました。
JALグループでは、この安全啓発センターを「安全の礎」とし、すべてのグループ社員がお客さまの尊い命と財産をお預かりしている重みを忘れることなく、社会に信頼いただける安全な運航を提供していくための原点としていきます。

日航機墜落事故から40年 遺族ら「御巣鷹の尾根」へ慰霊の登山
2025年4月29日 18時36分 (NHK)
520人が犠牲になった日航ジャンボ機墜落事故からことしで40年となります。墜落現場となった群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」への登山道が冬の閉鎖期間を終えて29日解禁され、遺族などが慰霊の登山を行いました。
40年前の1985年8月12日、日本航空のジャンボ機が、上野村の山中に墜落し、単独の航空機事故としては最も多い520人が犠牲になりました。

墜落現場の「御巣鷹の尾根」へ向かう登山道は、冬の間、閉鎖されていましたが、29日解禁され、午前9時に登山道につながるゲートが開かれました。
遺族など関係者は、登山道を登り、墓標や墜落現場にある慰霊碑、「昇魂之碑」に手を合わせるなどして、犠牲者に祈りをささげていました。
事故で当時9歳だった次男の健くんを亡くし、遺族でつくる連絡会の事務局長を務める美谷島邦子さんも朝から慰霊登山に訪れ、健くんの墓標に花を手向けて、静かに手を合わせていました。

週刊新潮3000号記念別冊『黄金の昭和』探訪 掲載
私の弟が事故当日このJA8119に搭乗予定でしたが、急患が発生、搭乗をキャンセルして一命を留めました。
「御巣鷹山日航機事故で生き残って」
平成28年8月11日発売の「週刊新潮 3000号記念別冊『黄金の昭和』探訪」にJAL123便を回避したとして、弟のコメントが半ページ記載されていました。
医師の脇山博之(56)ら間一髪で助かった当事者たちが、死神から逃れられたその理由を明かしている。その誰もが問わず語りに「生かされた命」という言葉を口にした。
日航機墜落事故で消えた、生きたくても生きられなかった520人の命。それをどこかに感じながら、それぞれの人生を生きている姿が同記事では伝えられている。

1980年に撮影した写真
弟の写真はあまり無かったので、もし日航ジャンボ機墜落事故にあっていれば、遺影になるところでした。事故が起きた日は医師になって3年目。大学病院に勤務していましたが、新米なので急患の連絡は一番に架かってきたようです。患者さんは命の恩人かもしれません。
命拾いしたお陰で、2007年東京都目黒区にクリニックを開業し、娘も医師として後を継げるように頑張っているようです。開業時とは違い最近は医療も大変そうです。
医療業界は現在4割~5割が赤字経営です。これはコロナ感染が始まった2020年1月以降に始まり、行政からの助成金、資金援助、借入などで凌いできました。赤字の状況は20床未満の診療所(クリニック)が顕著で、破綻する病院、診療所が増えています。
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日航ジャンボ機墜落事故、ジャンボジェット機墜落事故とも言われています。520名の死者を出し、日本の民間航空史上最悪の事故であると共に、単独機としては死者数において史上最悪の航空事故となっています。


事故機のJA8119(1984年4月16日撮影)
JALの事故報告より
1985年8月12日、JAL123便が御巣鷹の尾根に墜落し、520名の尊い命が失われてしまいました。
その事故の悲惨さ、ご遺族の苦しみや悲しみ、社会に与えた航空安全に対する不信の前で、私たちは二度と事故を起こさないと誓いました。
事故の教訓を風化させてはならないという思いと、安全運航の重要性を再確認する場として、私たちは安全啓発センターを2006年4月24日に開設しました。
JALグループでは、この安全啓発センターを「安全の礎」とし、すべてのグループ社員がお客さまの尊い命と財産をお預かりしている重みを忘れることなく、社会に信頼いただける安全な運航を提供していくための原点としていきます。

日航機墜落事故から40年 遺族ら「御巣鷹の尾根」へ慰霊の登山
2025年4月29日 18時36分 (NHK)
520人が犠牲になった日航ジャンボ機墜落事故からことしで40年となります。墜落現場となった群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」への登山道が冬の閉鎖期間を終えて29日解禁され、遺族などが慰霊の登山を行いました。
40年前の1985年8月12日、日本航空のジャンボ機が、上野村の山中に墜落し、単独の航空機事故としては最も多い520人が犠牲になりました。

墜落現場の「御巣鷹の尾根」へ向かう登山道は、冬の間、閉鎖されていましたが、29日解禁され、午前9時に登山道につながるゲートが開かれました。
遺族など関係者は、登山道を登り、墓標や墜落現場にある慰霊碑、「昇魂之碑」に手を合わせるなどして、犠牲者に祈りをささげていました。
事故で当時9歳だった次男の健くんを亡くし、遺族でつくる連絡会の事務局長を務める美谷島邦子さんも朝から慰霊登山に訪れ、健くんの墓標に花を手向けて、静かに手を合わせていました。

週刊新潮3000号記念別冊『黄金の昭和』探訪 掲載
私の弟が事故当日このJA8119に搭乗予定でしたが、急患が発生、搭乗をキャンセルして一命を留めました。
「御巣鷹山日航機事故で生き残って」
平成28年8月11日発売の「週刊新潮 3000号記念別冊『黄金の昭和』探訪」にJAL123便を回避したとして、弟のコメントが半ページ記載されていました。
医師の脇山博之(56)ら間一髪で助かった当事者たちが、死神から逃れられたその理由を明かしている。その誰もが問わず語りに「生かされた命」という言葉を口にした。
日航機墜落事故で消えた、生きたくても生きられなかった520人の命。それをどこかに感じながら、それぞれの人生を生きている姿が同記事では伝えられている。

1980年に撮影した写真
弟の写真はあまり無かったので、もし日航ジャンボ機墜落事故にあっていれば、遺影になるところでした。事故が起きた日は医師になって3年目。大学病院に勤務していましたが、新米なので急患の連絡は一番に架かってきたようです。患者さんは命の恩人かもしれません。
命拾いしたお陰で、2007年東京都目黒区にクリニックを開業し、娘も医師として後を継げるように頑張っているようです。開業時とは違い最近は医療も大変そうです。
医療業界は現在4割~5割が赤字経営です。これはコロナ感染が始まった2020年1月以降に始まり、行政からの助成金、資金援助、借入などで凌いできました。赤字の状況は20床未満の診療所(クリニック)が顕著で、破綻する病院、診療所が増えています。

