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マクドナルド創業者



マクドナルド創業者「レイ・クロック」とはどんな人物だったのか?

世界100カ国以上に展開する巨大ハンバーガーチェーン・マクドナルド。今から65年前に生まれたマクドナルドは、いかにして世界的大企業にのし上がったのか?

創業者であるレイ・クロックの苦労や逆境にまみれた人生を、作家の早見俊氏による『人生! 逆転図鑑』より一部抜粋・再構成してお届けする。

子どものころ、テレビアニメの「ポパイ」で、登場人物の一人ウィンピーが、よくハンバーガーを食べていました。1960年代後半、私の生まれ故郷にはマクドナルドもハンバーガーショップも、いや、そもそもハンバーガーなる食べ物がありませんでした。

ポパイを見るたびに「ハンバーガーって、とても美味しいんだろうなあ」と、生唾を呑んだものです。

月日は流れ、大学受験で上京した1980年、三越百貨店の銀座店1階にマクドナルドがありました。


1971年に開店した銀座の日本マクドナルド1号店(写真:共同通信)

買い方もよくわからないまま注文し、トレイに載せられたハンバーガーを食べようと思ったのですが、どこで食べていいのかわかりません。

路上で食べるなど想像もしていなかったので、トレイを持ったまま店内をうろついて恥をかいたものです。田舎者にとって、マクドナルド・ハンバーガーは都会の食文化でした。

そのマクドナルドを世界的なチェーン店に押し上げたのが、レイ・クロックです。

マクドナルドの父「レイ・クロック」

クロックは1902年、米国イリノイ州シカゴ近郊の町オークパークで生まれました。高校中退後、様々な職業を経験し、紙コップのセールスマンとして成功した後に、マルチミキサーの販売会社を経営します。1941年、39歳の時です。

マクドナルド創業者のレイ・クロック。写真は1950年代のもの(写真:Bachrach/Getty)

彼が扱ったマルチミキサーは、同時に5種類のミルクシェイクをつくれる優れもので、会社経営は順調でした。冒険などしなくても、順風な人生を送ることができたのです。

しかし、成功者の業というものでしょうか。留まることなく彼は上を目指してしまうのです。大金や地位を欲する以上に、彼らをつき動かすのはマグマのような情熱です。どんなに成功していても満足しない不満が、埋み火のように体内に沈殿しているのです。

その埋み火が何かをきっかけに燃え上がります。燃え盛った炎は誰も消すことができません。レイ・クロックの場合、埋み火に火をつけたのは1本の電話でした。

1954年、彼が経営するミキサー販売会社に「カリフォルニア州サンバーナディーノ市で、マクドナルド兄弟が使っているのと同じミキサーを売ってくれ」という電話がかかってきました。マクドナルド兄弟はハンバーガーショップを経営し、8台のマルチミキサーを使って儲けているそうです。

好奇心を抱いたクロックは、自分の目で確かめようと、兄弟の店を訪れます。これには、別の伝説があります。マクドナルド兄弟がマルチミキサー8台を注文してきた、というものです。どちらが真実かはともかく、クロックは兄弟のハンバーガーショップを訪れます。実際に、店内では8台のマルチミキサーが稼働していました。

クロックの商魂燃やしたマクドナルド兄弟の店

このとき、クロックの興味をひいたのはマルチミキサーではありません。じつのところ、マルチミキサーは頭から飛んでいました。それよりも、清潔な店内、教育された店員、ハンバーガーとフライドポテトにドリンク類だけという限定されたメニューが、クロックの目には新鮮に映りました。

ドリンク類が紙コップで提供されるばかりか、15セントのハンバーガーや10セントのフライドポテトも紙に包んで提供するため、通常のレストランに備えてある食器洗浄機もありません。

マクドナルド兄弟のハンバーガーショップは、無駄のない効率的な店舗運営がなされていたのです。クロックは魅了されました。さらに、パテを焼く者、バンズを挟んで包む者といった具合に分業化体制を整えられ、客が注文してからハンバーガーが出されるまで30秒以内を実現しています。

これはいける! カリフォルニア州の田舎都市だけで終わらせるのは惜しい!

クロックは兄弟に、チェーン展開をしないかと持ちかけます。降って湧いた儲け話に、兄弟はためらいましたが、クロックの情熱に押されるようにして応じました。クロックは彼らと契約を結びます。売り上げの1.9%をクロックが取り、0.5%を兄弟に提供するという条件で契約は成立しました。

チェーン展開の成功を確信し、浮き浮きとした気分で帰宅したクロックでしたが、妻は夫が新規事業を始めるのに猛反対します。妻にしてみれば50を過ぎたクロックが、安定した事業を運営しながら、どうして冒険しなければならないのだという思いです。

クロックが「絶対に儲かる」と説得しても、妻は聞く耳を持ちませんでした。儲かる、儲からないではなく、今の暮らしを壊したくないのです。それでも野望の埋み火が燃え盛ったクロックは、妻の反対を押し切って1号店を出す場所を探します。

1955年、マクドナルドシステム会社を設立、イリノイ州デスプレーンズに出店しました。売り上げは上々で、順調な船出となり、新規事業の展開にクロックは手応えを感じます。

「口約束」のせいで借金を背負ってしまう

ところが、マクドナルド兄弟の裏切りに遭います。兄弟はクロック以外の人物にフランチャイズ権を5000ドルで売ってしまったのです。寝耳に水のことで、もちろんクロックは猛然と抗議をしました。

しかし、致命的なことに正式な契約書を交わしておらず、兄弟とは口約束だったのです。クロックはフランチャイズ権を取り戻すために、5倍の2万5000ドルを用立てなければなりませんでした。

また「絶対いける!」と思ったハンバーガー事業も、あっという間に暗礁に乗り上げました。出店した1号店の売り上げだけではどうにもならず、クロックは借金を抱え、営々と築いてきたミキサー販売会社の利益を補填せざるを得ませんでした。新規事業は、巨大なお荷物になったのです。

それでもめげるクロックではありません。彼はしゃにむに働きます。毎日、誰よりも早く店に出て材料の発注、厨房の準備、トイレ掃除までもこなし、夜まで働き詰めに働きました。それだけではなく、夜にはミキサー販売会社の仕事もしたのです。

その間、マクドナルド兄弟の要求は容赦ありませんでした。クロックは、店内のデザイン変更といった店舗運営に関わる重要な案件はもとより、ジャガイモの保存場所といった小さなことまで承認を得るために書面にし、速達書留で送らなければなりませんでした。

もっとも、クロックも口約束には懲りていましたから、書面で承認を得ました。寝る暇もなく、憑かれたように働いた甲斐があって、翌1956年には11号店にまで店舗を広げられました。

しかし、これほど猛烈に働いても、クロックはほとんど利益を得ていませんでした。店舗が増えて売り上げは伸びても、働き損となっていたのです。原因は契約形態にありました。

クロックは契約の際に、新店舗のオーナーから認可料として950ドルを受け取り、店舗が運営された後は売り上げの1.9%の支払いを受けるという契約を交わしていました。ところが、店舗が運営されるまでには、様々な準備に日数を要します。

この間、1.9%の売り上げはクロックに入らず、彼は950ドルに手をつけざるを得なくなります。つまり、働けば働くほど、赤字を背負うことになったのです。それでは店舗を広げないほうがいいということになり、チェーン展開は挫折します。客単価の安いマクドナルドのハンバーガー事業は、チェーン展開してこそうまみがあるのです。

また、マクドナルド兄弟がおこなった合理的な店舗運営は、チェーン展開には相性ぴったりで、マニュアル化しやすく、またマニュアル化できてこそのチェーン展開でした。狙いはよかったのです。しかし、実際にやってみると、店舗開店に日数を要することが大きな障害だと判明しました。

「どうすればいいのだ」と、クロックは悩みます。しゃにむに働くだけでは改善できません。システムの見直しが必要でした。


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そこで活躍したのが、彼の知恵袋となったハリー・ソナボーンです。

ソナボーンは「新店舗はクロックが場所を決め、その土地をローンで購入する。さらに、その土地を抵当として銀行から金を借り、店舗を建設する。フランチャイズ加盟者には、売り上げの1.9%に加えて、抵当権の返済も求める」という方式を提案。クロックは迷わず採用します。

この結果、マクドナルドの店舗価値によって土地の値も上がり、クロックは大いに潤いました。チェーン展開は急速に進み、1960年には全米で200店舗にもなります。クロックは、社名をマクドナルドコーポレーションと変更しました。翌1961年、マクドナルド兄弟が、すべての権利を売りたいと言ってきます。

兄弟が提示したのは270万ドル、それはフランチャイズで得た利益の15倍もの金額でした。それでも、兄弟との確執を思えば、関係を解消できるとクロックは応じます。

ところが、またしても確執が生まれます。すべての権利を手放したはずなのに、兄弟は「自分たちが運営した1号店の権利は含まれていない」と言い出したのです。その店舗は、なんと言ってもマクドナルド・ハンバーガー誕生の店、クロックは引き継ぐのが当然と考えていました。そこでクロックは、兄弟の店の近くにマクドナルドの店舗をオープンし、今度こそ兄弟を追い込むことに成功しました。

1965年、マクドナルドは株式上場をし、クロックは莫大な創業者利益を得ました。そして1984年に81歳の天寿をまっとうするまでに、世界で8000店を超す店舗を広げたのです。

クロックが「成功と引き換え」に失ったもの

実業家としては大成功したクロックでしたが、妻とは離婚し、右腕と頼んでいたソナボーンとは経営方針で意見が合わず退社させました。後年、クロックは「トップは孤独なのだ」と語っています。

米国の食文化を象徴するハンバーガーを世界に広めた男、レイ・クロック。彼は、苦境に陥っても挫けない不屈の闘志、目的達成のためには孤独にもなれる男でした。マルチミキサーの販売会社を経営し、高望みしなければ平穏に暮らせた人生でしたが、妻の反対に遭っても己が野心に突き進みました。

レイ・クロックは、逆転する必要がないのに人生を逆転させたのでした。
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